大学、大学院とeラーニングの研究を行ってきました。もう、5年以上前の事になります。現在では、ICTを使った教育というのは、ある意味で当たり前になってきたのでeラーニングという言葉も殊更聞かなくなりました。喜ばしいことです。
以前は、eラーニング自体が物珍しいものであったので、何でもかんでもeラーニングと言えば良かったという時代があったと思います。古き良き時代だったのですね。もちろん、今でも研究としては継続していると思いますが、一定の棲み分けのようなものがあると思います。つまり、ある程度技術的には「枯れた(成熟した)」という事です。
たとえば、webサイトで映像を流すというのは、ここ5年で急激に簡単になりました。youtubeによって動画を流すこともできるし、Ustreamのようにライブ配信もできます。最も安くやろうとすれば、PC一台あれば事足ります。技術の進歩はすさまじいですね。
世界中の講演やシンポジウムをその場に行かなくても、「見たり」「聞いたり」する事ができます。
一方、何でもかんでも映像が良いとも言えません。
講演をテキストにした講演録と、講演そのものとを比べて見れば、同じ時間に得られる情報量には差があります。もちろん、テキストの方が内容としてはとらえられるものが多いという事です。一方で、映像はその場の雰囲気を擬似的に感じる事ができるわけです。ニュアンスだとか、会場とのインタラクション。ジョークなどは映像でなければ伝わらないでしょう。しかし、講演内容は圧倒的にテキストの方が、早いのです。
一方、反省的に語るならば、eラーニングに取り組む時には、やっぱり映像を作りたがっていましたし、映像を期待したものです。しかしながら、ほとんどのケースで映像は必要なく、テキストで十分だったのです。
このように考えると、本質的に映像のようなリッチなメディアを必要とするコンテンツとは何であるかを考えなければならないのでしょう。昔の人達の偉大な発明である活字のすばらしさを感じるとともに、「で、その向こうに何ができるのか」を考える必要性が、さらに深まっているのだと思います。