手を挙げた人が苦しむゼミ

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今週末にある実践を控えていて、バタバタとしています。
こちらは研究的な要素は少なく、イベントの運営だったり、各種調整だったりが多岐にわたり、苦労しています。

さて、ゼミ活動としてこうしたプロジェクトをいくつか運営しているのですが、基本は「自主性」に拠っています。「やりたい」という人がいた場合プロジェクトを運営し、やりたい人がいない場合にはお断りしています。あるいは、私がやる事も。

プロジェクトの種類にもよりますが、「ただ働き」にしてはいけないなと思っているからです。「やらされ感」では、誰にとってもやる意味などないと思うからです。

もう一つ、プロジェクトに手を挙げた人には、本人達にかなり任せる事にしています。もちろん、最終的な責任は私が持ちますが、手を挙げたというリスクを取った行動に対しては、相応のリターンを返したいと考えているからです。

そのリターンとは何か。
一つには、「やりたい事を実現させようとする権利」だと捉えています。リスクをとってプロジェクトの責任を持とうとしたとき、初めてやりたい事がやれる権利を与えられるのだと思っています。

それは、プロジェクトの根幹の作業を行う人が実質的にプロジェクトをコントロールできるということもありますが、メンバーからの信頼という面も大きいです。泥臭いですが、汗をかいていない人が信頼される事はないのです。

もう一つは、いわゆる「苦労は買ってでも行え」でいう「苦労」が近いかも知れません。
プロジェクトを運営すれば、当然想定外の事が出てきます。少なくとも、学生自身が想定していなかった事がたくさん出てくるわけです。「○○なんて事がでてくるとは思わなかった」と言います。しかし、それを乗り越えなければ、やりたい事を実現することなどできないでしょう。「○○があったせいでできなかった」と言い続けることになってしまいます。

少なくとも、伴走しながらくじけそうな所でもあと一歩踏み込んでいけるようにサポートしていきたいと考えていますが、手を挙げた人は、「こんなはずじゃなかった」と少なからず思っているでしょう。自分の想定を超えた能力を要求されるからかも知れません。

もちろん、これが正しいかどうかはわかりません。日々模索です。しかし、苦しみながらもなんとかしようと頑張っているゼミ生には、プロジェクトを通じて成長して欲しいと願うばかりです。

toi
ある実践の際にあったトイレにて

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