「会社、社員、街、チーム、組織」に元気がないから、改革をしなければ。
この言葉だけを見れば、まあ広く出回っていると思うし、さらに皆の納得感を得られると思う。その一方で、この手の改革が成功したという話は聞かない。いや、無いわけではない。雑誌やテレビの特集では改革がうまくいったという話は良く聞く。しかし、身近な例としては出てこない。圧倒的に、無残に散っていった話が多い。
失敗した改革について考えてみると、はじめは全員が同じ方向を向いていたが、議論を詰めていく中でそれぞれの利害関係が一致せず立ちゆかなくなった、というものが多いように思う。なぜ、「改革をする」という方向で意見が一致していたはずなのに、意見が合わなくなってしまったのだろうか。
これらの背景には、そもそも改革に対する期待値が人それぞれ違い、それ故に総論賛成、各論反対という議論になってしまうのではないかと思う。
たとえば、「組織を活性化しましょう」という話をした時を考えてみよう。
A「社内の会話が少なくなっているから、挨拶をしよう」
B「ベテランと若手がバラバラだから、飲み会を増やそう」
C「新しい業務にも積極的にチャレンジできるように、役職者を入れ替えよう」
もう、絶望的にかみ合わっていない。でも、それぞれは正しいと思って言っている。
きっと、このような場面であるならば、AとBとがタッグを組み、一番ラディカルなCをつぶしにかかると思う。ここでは役職などのパワーバランスは考えていないが、仮にCが一番の役職者だとしたら、なんだかんだ言い訳をつけてサボると思う。一方、Cからすれば、AやBの意見など活性化にもなっていない訳だから、それが実現されたとして満足しない。何か「事はなした」が、物事は解決していない(と思っている)し、満足もしていない。こんな形で改革は失敗していくのではないか。
そこには世代間のギャップもあると思う。組織において、年配者(たとえば50代)からすれば、もうすぐ「上がり」なのだから「改革をしているふり」をしているのが合理的である。故に、短期的かつ「効果が上がったように見える」ものを望む。一方、若い人達(たとえば20代)からすれば、短期的に逃げ切るのではなく長期的に意味がある改革を望むだろう。概してそれは本質的かつ痛みを伴うものだと思う。同じように、現状にフィットしている人としていない人にも差はあるし、変化に対する耐性のようなもの影響していると思う。
と、こんな事はある種自明のことだ。だからこそ改革は難しいし、価値があるのだと思う。一方で、上記のような状況に際した際に「良い改革案を出したが、あいつらは動かない」と、改革に否定的な人を非難する人たちもいる。社内にもいるだろうし、外部にもいるだろう。
しかしながら、たぶんそこからがスタートであって、改革は「まだ、何も始まっちゃいない」のだ。大事なことは、その状況に至った上で、さらに一歩踏み出すことだと思う。